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宝永山の見え方
江戸時代の宝永4年(1707)12月16日、富士山の南南東斜面で大噴火。
その規模は、江戸の町に大量の火山灰がふり積もったとの記録が残されているほど。この時できた側火山(標高2,693m)を宝永山という。
静岡県側から見る富士山の定番は宝永山が右肩に位置する。但し裾野市では宝永山が正面、御殿場市・小山町では左側に見える。ちなみに富士山の真西や北側にあたる富士宮市北部や山梨県側から宝永山は見えない。
富士山の笠雲で天気予報
「富士山に笠雲がかかると雨がふる」というのが、昔から地元に伝わる天気予報。しかし、実際は笠雲の掛かり方、形によって天気が違ってくる。ひとつ笠、はなれ笠、よこすじ笠ほか、形にマッチした呼び名もなかなか面白い。



富士市ホームページ/富士山の雲と天気
http://www.city.fuji.shizuoka.jp/m_fuji/kumotenki.htm
絵画にみる富士山
※ここで掲載されている画像は、無断で使用することを禁じられています。ご了承ください。
歌川広重「由井薩た嶺」/東海道広重美術館所蔵
歌川広重の代表作「東海道五十三次」の由比宿の風景。薩た峠(さったとうげ)越しに雪を頂く霊峰富士が描かれている。現在もほぼ同じ眺望を楽しむことができる。

谷文晁「富士山図屏風」/静岡県立美術館所蔵
江戸南画の重鎮・谷文晁の代表作で、江戸時代に描かれた水墨画による富士山の最高傑作の一つ。
文晁の心に刻まれた富士山が、水墨の大胆な筆さばきで描かれている。

筆者不詳「曽我物語 富士巻狩・仇討図」/静岡県立美術館所蔵
工藤祐経の家来によって闇討ちされた父・河津三郎祐泰の敵討ちをするために、源頼朝が行った富士の巻狩りの陣屋を襲った曽我兄弟の物語は人々の共感をよび、絵画でも数多くの作品をうみ出して来た。県立美術館では曽我物語での仇討と源頼朝の巻狩の様子を描いた富士巻狩の2点が所蔵されている。

富士曼荼羅図/富士山本宮浅間大社所蔵
重要文化財。室町時代末期、狩野元信によって描かれたものといわれている。
当時の富士山に登る人々の姿が描かれており、修験者の動きを通して当時の富士山信仰の様子が伺える。

富士山にまつわる民話
ダイダラボッチ伝説
ダイダラボッチという大男が、近江(滋賀県)の土を運び、高く盛り上げて一晩で富士山をつくった。
その時土を掘った跡が琵琶湖に、ダイダラボッチが途中昼食をとった時、手をついた跡が浜名湖に、途中こぼした土が富士山~琵琶湖間にある様々な山になったという。

下田富士と駿河富士
下田富士と駿河富士は仲のいい姉妹。妹の駿河富士はたいへんな美人に成長した。一方、姉の下田富士は不美人。
そのことを気にした下田富士は、伊豆と駿河の間に大きな屏風を立てて顔が見えないようにした。その屏風が天城山。
下田富士はさらに身をかがめ、心配する駿河富士はどんどん背伸びをして覗きこむ。このようにして、駿河富士は日本一の高さになったという。
聖徳太子の富士登山
聖徳太子が摂政の頃、献上させた良馬の一頭に試し乗りした時のこと、太子がむちをあてると馬はすごい勢いで東の空へと飛んで行き、着いた先は富士山の頂上。太子によると頂上には大きな岩穴があり、その中は金色に輝く岩が並び、奥の院らしき境内には大蛇に化身した大日如来がいらっしゃった。太子は大日如来より「和をもって貴しとなし、厚く三宝を敬い、礼をもって本とせよ」との教えをいただき、三日目の朝御殿に戻ってきたという。






